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コミュニケーション研究所

「演劇ワークショップの可能性」2011.07.12   鈴木 あきら

若者たちの変容をどのように受け止めるべきなのか

いわゆる「ゆとり世代」の台頭が企業の採用担当者や現場管理職の間で話題になるようになって久しくなります。
その間、「ゆとり世代はダメだ、使えない」といった批判的論調から、「いつの時代だって『今時の若いやつらは‥‥』と言われていたじゃないか。事実、私たちだって新人類と呼ばれてたんだ」というような擁護的論調まで、様々な言説が飛び交ってきました。
いったい、どちらの論調が若者たちの変容の本質を言い当てているのでしょうか。
私はどちらの論調にも与しません。
なぜなら、現在の若者たちの変容は時代の変化と正確にリンクしているのではないかと考えているからです。
もし私の考えていることが正しければ、若者たちの変容の本質を探っていくことは、そのまま私たち自身のあり方を考えることに繋がるはずです。


現在の若者たちの変容を表面的に見れば、「ゆとり教育による学力の低下」「社会常識の欠如」「教養のなさ」「上昇志向や意欲の低下」「主体性の欠如」などの特徴をあげつらうことができるでしょう。
さらにマスコミコピー風に言うならば、テレビ離れ、クルマ離れ、バイク離れ、読書離れ、雑誌離れ、新聞離れ、活字離れ、酒離れ、タバコ離れ、プロ野球離れ、スポーツ離れ、映画離れ、ゲーセン離れ、パチンコ離れ、CD離れ、旅行離れ、恋愛離れ、セックス離れなど、いわゆる「若者の○○離れ」などを挙げるのがわかりやすいかもしれません。
しかし、それらの一つひとつを取り上げて、「現在の若者たちの学力は低下したのか、していないのか」「若者たちのテレビ離れはインターネットの出現によるものか、それともマスメディアの弱体化によるものなのか」などと検証してみたところで、決して実りある結論は得られないでしょう。


この3.11以後の日本社会の混乱が如実に物語っているように、私たちの企業社会、さらには私たちの生きている社会そのものの構造は、いま、大きく変化しようとしています。
原発事故による放射能の影響を最も顕著に受けるのは、私たち大人ではなく乳幼児であるように、この時代の変化の影響を受けてドラスティックな変容を遂げるのは、私たち大人ではなく若者であるはずです。
そうである以上、私たちは彼らの変化の根底にあるものを正確に読み取り、来るべき時代の新たな組織論を模索していかなくてはなりません。


芸術の世界に「前衛」という言葉があります。
これは、もともとは軍隊用語です。
ある日、ある村に突然武装小隊が現れて、村人を皆殺しにしようとします。驚いた村人は必死に反撃を加え、かろうじてそれの撃退に成功します。
それからしばらくは村に平和な時が流れているのですが、皆があの部隊のことを忘れかけた頃、突如大編成の武装部隊がやってきて、今度は完膚無きまでに村民を皆殺しにしてしまいます。
その時、村民の一人は薄れゆく意識の中で、あの武装小隊のことを思い出し、「ああ、あれは前衛部隊だったんだ‥‥」といいながら事切れてしまう。
前衛というのは、そういうポジションにある者のことを言います。
とすれば、現在の変容する若者たちが、来るべき未来の前衛ではないと誰が断言できるでしょうか。



後から巨大な変化の波がやってくる前に、いま、若者たちの変容の本質を分析し、理解しておくこと。
それが、いま私たちのやらなければならないことだと思うのです。

舞台評2011.07.11   鈴木 あきら

元祖演劇乃素いき座公演「阿房列車」

先週の金曜日、青年団のアトリエ春風舎で元祖演劇乃素いき座公演「阿房列車」を観てきました。
内田百閒の「阿房列車」を下敷きに、平田オリザさんが書き下ろしたこの作品は、1991年の初演から数百回も繰り返し上演されてきた作品ですが、私は未見だったのです。


簡単な感想から言うと、「芸事」としてはそこそこ面白い公演でしたが、「演劇」という観点から見ると多くの疑問が残る舞台だったと言っていいと思います。

では「芸事」と「演劇」はどこが違うのでしょうか。
これは私が弊社の「ドラマメトリクス」というコミュニケーション研修の冒頭でよくお話しすることなのですが、「芸事」というのは、まさに役者個人の芸を見せるために存在する表現形式です。ですから、観劇後の評価は「上手だった」「面白かった」「素敵だった」という範疇でなされます。
それに対して「演劇」というのは、個人の芸ではなく、登場人物の関係性を見せる表現形式です。ですから、この場合の評価は「考えさせられた」「世界が見えた」「自分だったらどう対処するのか」というような範疇でなされることになります。
つまり、まったく同じように見える表現形式であっても、作る側がどこに立っているのかによって、それが「芸事」にもなれば「演劇」にもなるわけです。


いき座の「阿房列車」の筋立ては至極簡単です。
初老の夫婦がほとんど目的もなく、ただ終点まで列車に乗って旅をする。その間の二人の会話だけで成り立っているのですが、その会話も意味のある会話ではありません。二人が、お互いの距離を確かめ合うためにだけなされる会話ですから、第三者にとってはほとんど意味のないものです。
もちろん、それだけでは演劇空間が成立しませんから、そこに平田オリザ流の仕掛けが施されています。
二人の座席に、若い女の子が「ここ、空いてますか?」といって割り込んでくるのです。
平田さんの「演劇入門」を読まれた方であればすでにおわかりだと思いますが、これは現代口語演劇論の根幹をなすシチュエーション設定です。
二人だけで成立していた空間に、異質の他者が入り込んでくることによって引き起こされる緊張関係が、演劇的な空間を生みだしていく。これが平田さんの考える演劇の基本です。


初老の夫婦が他愛のないおしゃべりをしている。その和んだ空間に、「ここ、空いてます?」といって異質の第三者が割り込んできたときに、夫婦の関係がどんな風にきしむのか。あるいは、どんなふうにぎこちなくなっていくのか。それが関係としての演劇を成立させるキーポイントです。

ところが、いき座の舞台では、それが一切考慮されていません。
女の子が自分たちの空間に入れ込んできても、夫婦の緊張関係にまったく変化は現れませんし、関係性がきしみもしないのです。


女の子が入ってきてから、舞台にいる人数は数回変わります。
まず奥さんの方がお手洗いに立ち、座席にはご主人と女の子だけが残ります。
続いて、女の子がお手洗いに立ち、夫婦だけが残ります。
さらに、ご主人がお手洗いに立ち、奥さんと女の子だけが座席に残ります。
当然のことながら、座席の二人の関係は微妙に変化し、緊張関係も変化します。
若い女の子と二人だけになったご主人は、会話の接ぎ穂に困るかもしれませんし、あるいは、若い女の子の手前、少しばかりいい格好をしようとするかもしれません。つまり、淡いながらも、男女の緊張関係が生まれる余地だってあるわけです。
女の子がいなくなった座席における夫婦の関係は、それまでの夫婦の関係とは微妙に変化するでしょう。
第三者がいなくなったことによって、緊張の糸が緩むかもしれないし、緩んだことによって生じる夫婦の新たな関係というものもあるかもしれない。
そのように、誰か一人がいなくなることによって生じる関係性の変化こそが、この舞台の基調底音なのです。


ところが、いき座の舞台では、そのような人間関係の変化や緊張の緩急というものが一切考慮されず、会話のトーンの変化は、役者個人の生理や演技術によって紡がれていきます。

もちろん、それがすべてダメだというわけではありません。
冒頭にも書いたように、それはそれで「芸事」としてはそこそこ楽しめる舞台になっているからです。
それは、いき座の構成メンバーである土井道肇さんと森下眞理さんの長い演劇経験に裏打ちされた「芸」の力によるものでしょう。
しかし、私のように、演劇を「芸事」としてではなく、「関係性の芸術表現」として観たい人間にとっては、至極退屈な舞台だと言わざるを得ませんでした。


それから、もう一つ、返す刀で平田さんをも切ってしまうと、この平田版「阿房列車」の「東京物語」のような世界は、百閒先生の「阿房列車」の世界とはかなり異質です。
私は、百閒先生の「阿房列車」は、戦う相手を欠いた「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」だと思っています。
内田百閒というドン・キホーテと、ヒマラヤ山系(平山三郎)というサンチョ・パンサが、鉄道という名のロシナンテに乗って旅をするのですが、百閒先生の旅とドン・キホーテの旅の決定的な違いは、キホーテの旅が遍歴の騎士として世の中の不正を正すための旅であるのに対して、百閒先生の旅はまったく無目的だということです。
しかし、にもかかわらず、百閒先生の「阿房列車」は、ミゲル・デ・セルバンテスの「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」同様、その奇行、愚行によって時代変化の波と、それに翻弄される人々の様子を見事に描いています。
それは、自分自身の奇行や愚行を面白可笑しく突き放した文体で描ききってみせる百閒先生の強靱な精神力の賜物です。
平田さんはこの作品を、土井さんの依頼によって土井さんと森下さんのために書き下ろしたのですから(弱冠25歳で!)、百閒先生のドン・キホーテ的世界が、小津の「東京物語」風世界になってしまったと批判するのは酷かもしれませんが、やはり「阿房列車」と題する以上、百閒先生のとことんナンセンスな暴力性を期待してしまいます。
世話な事情は事情として、そのあたりはなんとも残念な気がしました。

カテゴリー:舞台評
「日々雑感」2011.06.14   鈴木 あきら

怯えた年寄りにならないために

ツイッターに引き続き、ブログを始めることにしました。
これまで「週刊サンタ通信」という形のメルマガによる情報発信は行ってきましたし、読者の方々からも「もったいないから、ブログで公開すれば?」という声もいただいていたのですが、私としては結構かたくなにブログは拒み続けていました。
それは、私に非常に痛い経験があるためです。


かつて、文化放送ブレーンという就職情報会社に勤めていた頃、私は12万人の学生相手に「週刊/就職クリップ」というメールマガジンで「就職活動アドバイス」をしていたのですが、これが「無意味に」炎上するのです。
就職活動も後半になると、内定を獲得できない学生たちの間に焦燥感や苛立ち、あるいはやり場のない怒りなどの感情が芽生えてきます。
そうした時のメルマガは本当に怖い。
なんでもない言い回し、というより単語の選択ひとつで、ものすごい数の抗議メール、というより罵倒メールが殺到するのです。


無料で配信しているメルマガであるにもかかわらず、「購読者をバカにしている」とか、「購読者をなんだと思っているんだ」というようなメールが大量に届くんです。
そんな時うっかり、「君たちはお金を払っているわけじゃないんだから、購読者じゃないよね?」というような反論でもしようものなら、もう大変です(実際、12〜13年前の私は、愚かにも反論してしまったのですが)。


「馬脚を露わしたな! 金が全てだと思っていることが見え見えだ」とか、「何様だと思っているんだ。金を払わなきゃ人間じゃないというのか」などという、もう論理もなにもないような反論メールが殺到するわけです。
しかも、そのメルマガは12万通も一斉配信しているのですから、寄せられる罵倒メールも半端な数ではありません。それこそ、何百通という単位で送られてくるんです。
もちろんそれだけじゃなく、それと同じぐらいの数だけの「感謝メール」も届きます。
「あんな風に大人の人に真剣に意見されたことはありませんでした。鈴木さんが本当に私たちのことを親身になって考えてくれているんだということがよくわかりました。ありがとうございます」というようなメールも来るには来るんです。
それはそれで嬉しいのですが、なにしろメールにいちいち「罵倒メール」「感謝メール」というような目印が付いているわけではないので、10通の「感謝メール」を読むためにはそれと同じか、それの倍以上の「罵倒メール」を読まなくてはならないわけです。
それはものすごく強靱な気力と体力のいる仕事なんですね。
毎週水曜日の配信でしたが、週末になるともうヘトヘトでした。


もちろん、毎週そんな状況に陥るわけではなく、起きても年に数回のことなのですが、いまの私にはとてもあんなしんどい仕事をこなすだけの体力も気力もありません。
そんなわけで、ブログやツイッターには極力関わらず、せいぜいクローズドな「メルマガ」でお茶を濁していたわけです。


しかし、これだけソーシャルメディアが多様化、活性化してきた現状では、それを無視して仕事をしていくわけにはいきません。
それに、そんな理由でツイッターやブログを使わないというのは、自分がまるで街に出たら殴られるんじゃないかとオドオドして、裏道だけをたどり歩いている怯えた年寄りになってしまったようで、なんだか悔しい気もします。


そんなわけで、意を決して公式ブログを立ち上げることにしました。

このブログでは、仕事や暮らしの中で気になったことを書いていく「日々雑感」と、現在私たちが展開している体感型演劇ワークショップ研修「ドラマメトリクス」の理論的背景について述べていく「演劇ワークショップの可能性」という二つのカテゴリーで書いていくことにしますので、よろしくお付き合い下さい。






カテゴリー:「日々雑感」

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