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コミュニケーション研究所

2011.12.15
舞台評
鈴木 あきら

(1)文化庁主催 在外研修の成果公演 「ポルノグラフィ」

12月8日(木)に、文化庁主催 在外研修の成果公演「ポルノグラフィ」(サイモン・スティーヴンス/作、上村聡史/演出)を観に行ってきました。
とてもいい舞台でした。


「ポルノグラフィ」は2005年7月に起こったロンドン同時爆破テロを題材とした戯曲です。ロンドン同時爆破テロというのは、ロンドン市内の地下鉄3ヶ所が、その約1時間後には大英博物館近くの路上で2階建てバスが爆破され、自爆テロの実行犯4名を含む56人が命を落とした事件で、同年9月にアルカイダが公式に犯行を認めました。

このような凄惨な出来事を、しかも事件の記憶も生々しい2007年に戯曲の題材として取り上げるのは大変に難しいことだったと思います。
事件の悲惨さを精緻に描くことも劇作家の腕が問われる作業ではありますが、それが観客にカタルシス以上の何かを与えてくれるとは思えません。自爆テロの実行犯やその背後の組織を糾弾する戯曲を書くことも可能でしょうが、それで事件の本質にどこまで迫ることができるかは疑問です。
事件の悲惨さを描くのでもなく、加害者を糾弾するのでもない劇世界の構築方法はあるのだろうか。
それが、このような題材に向き合った劇作家に突き付けられる第一の課題です。


こんな時、私はイラク戦争取材中に心ならずも殺害されてしまった戦場カメラマンの橋田信介が残した、「戦場を語るな、戦争を語れ」※1という言葉を思い浮かべます。
「戦場を語らずに戦争を語る」。
このことこそが、このような難しい題材に向かい合う劇作家がとるべき唯一の方途である、と私は思うからです。


「戦場を語る」というのは、たとえばかつての戦争を「戦争の悲惨さ」や「原爆の悲惨さ」を語り継ぐという形で作劇することに相当します。戦争や原爆の悲惨さをいくら精緻に描いたところで、それは国家という暴力装置が何故存在するのか、どうして国家と国家が剥き出しの暴力で闘い合わなければならないのかという戦争の本質に至ることはできません。戦場における闘いの悲惨さを語るのではなく、なぜ私たちは「戦争」を必要とするのか、どうして私たちは「戦争」を抑止できないのかという「構造」をこそ描く。
それが「戦場を語るな、戦争を語れ」という言葉の持つ意味です。


「ポルノグラフィ」の作家であるサイモン・スティーヴンスは、この第一の関門を、事件をストレートに描かないという手法を用いることでとりあえずクリアしました。
被害者の無念、被害者家族の怒りと悲しみ、加害者に対する憎悪、そして加害者が抱いていたであろう西側諸国に対する義憤や呪詛といったものを正面から描くのではなく、ロンドンの市井の人々の生活の記憶、人生の断片をランダムに列記していくことで、この凄惨なテロ事件に客観的視座を与えることに成功したのです。


事件に客観的な視座を与え、事件の本質的考察は観客に委ねるというこの手法は、村上春樹が地下鉄サリン事件を取り上げたノンフィクション『アンダーグラウンド』(講談社/刊)を彷彿とさせます。

ただし、サイモンの選択した手法は村上のそれと同じように見えながらも、本質的には微妙に異なります。というよりも、サイモンの選択した手法は、村上のそれよりもさらにもう一段位相をずらした位置にある、というべきかもしれません。
それは、サイモンがこの戯曲にト書きも書かず、俳優の人数も指定せず、戯曲を構成しているブロックの上演順もすべて自由である、という但し書きまで附しているからです。

「戦場を語らず、戦争を語る」ことに成功したとしても、そこにはまだ大きな落とし穴が待ち受けています。それは、いかに慎重に事実の断片を列記していったとしても、その配列の仕方そのものの中に、作者の意志とメッセージが否応なく組み込まれてしまうということです。

かつて、メディア学の先駆者であるマーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と喝破しました。
通常、私たちはメディアを「情報を媒介するもの」であり、それ自体にメッセージは含まれていないと考えがちです。しかし、新聞紙面を見てみれば容易にわかるように、1面トップを飾る記事と3面のベタ記事では、あきらかに情報に格差があります。私たちはニュースを知るために新聞を読むのではなく、現在の日本ではどのニュースが最も重要であると思われているのかという国民的合意(であると新聞社が考えているもの)を知るために新聞を読むのです。

同様に、いくらサイモンが「そこには私のメッセージは含まれていない」と言い張ったところで、彼の戯曲を舞台上に立ち上げる演劇現場の創作者たちは、そこにサイモンのメッセージ(であろうもの)を読みとり、それを舞台上に定着しようとしてしまうでしょう。

では、サイモンの戯曲からメッセージを読み取ってしまうことが、どうして危険なことなのでしょうか。
それは、ある事件に対して一つのメッセージが発信された瞬間、それは一片の情報として瞬く間に消費されてしまうからです。

「それ、どんなお芝居なの? ああ、反戦劇ね」
「テロリストを糾弾している? なるほど、愛国劇ね」

私たちの生きている時代は凄まじい速度で変化し続けており、同様の、あるいはそれ以上のスピードで情報が消費されています。
そんな時代にあって、一つのメッセージによって自分の立ち位置を固定してしまうことは、極めて危険な行為であると言わざるを得ません。
サイモンはそうした状況を冷静に見つめながら、自分の戯曲から丁寧にメッセージ性を拭い去ろうとしたのでしょう。
文脈を固定せず、組み替え可能なものとして演劇現場の創作者の前にゴロリと放り出すことによって、「ロンドン同時爆破テロ」という呪詛と呪縛に満ちた題材の処理を、演劇現場の創作者の想像力に委ねたのです。

<この稿続く>

※1『戦場カメラマンが書いた イラクの中心で、バカとさけぶ』(アスコム/刊)より
橋田さんは「戦場記者は戦争を語ってはならない」という鉄則を持っていたといいます。「なぜなら、<争>の原因はすぐれて政治の世界であり<場>からは見えないからだ」。その立場を踏まえた上で、彼は「もうそろそろ<戦場>と<戦争>をごっちゃにすることから卒業しなくてはならない。<戦場>の悲惨さを語るのは、単にそれは”泣き言”であることを悟らなければならない」と書いています。


 

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