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コミュニケーション研究所
2011年 9月アーカイブ一覧

「演劇ワークショップの可能性」2011.09.5   鈴木 あきら

グローバルコミュニケーションの落とし穴

前稿で「グローバルコミュニケーションを成立させるために必要な三つの力」について述べましたが、考えてみれば、これはごく当たり前のことのように思われます。
アメリカ人が私たちにとって異文化圏の人であり、彼らに私たちの生活習慣を理解してもらうためには、理を尽くして丁寧に説明しなければならないということは誰にだってわかることだからです。
ところが、これが極めて似通った生活習慣を持つ外国人との間では、話は数段ややこしくなります。


たとえば、あなたの部屋に韓国人が訪ねてきて、キチンと靴を脱いで部屋に入ったとします。
韓国には私たちと同じように家に入るときには靴を脱ぐ習慣がありますから、アメリカ人の場合と違って、彼とあなたの間には同じ生活習慣を持つ者同士の安心感が漂います。
でも、彼の脱いだ靴は部屋の中を向いたままでした。
お客様の脱いだ靴をキチンと外向きに揃え直すのが当然の礼儀だと思っているあなたは、彼の脱いだ靴をクルリと外に向けて揃え直したのですが、その途端、彼の表情が硬くなりました。
さて、どうしてでしょう?
彼の表情が硬くなったのは、彼があなたの行為を無礼な行為だと受け取ったからです。
なぜなら、お隣の韓国の人にとって、靴を外向きに揃えて置くというのは、「早く帰ってほしい」という意思表示になるからです。


このケースでディスコミュニケーションを呼び寄せてしまったのは、「靴を脱いで家に入る」という大枠の習慣を共有しているためです。
大枠が同じだと、すべてが同じはずだと思い込んでしまい、細部の検証を怠ってしまうんですね。
価値観の違いが大きく明らかな場合は、「伝わらない」という前提がうまく機能するためにそれほど大きなディスコミュニケーションは起こらない。
しかし、「たぶん伝わっているはずだ」と思った瞬間に、思いも寄らない意志疎通の齟齬が起きてしまう。
それがグローバルコミュニケーションの難しさなのです。


このように考えてみると、身につけている文化や教養、生活習慣が異なるにもかかわらず、その差異に気がつかないためにディスコミュニケーションが起こってしまうのは、何も外国人を相手にしているときだけではないことに気がつくはずです。

3.11の震災時に、テレビには繰り返し原子力保安院の会見が流れましたが、あれを見て、彼らが何を言っているのかわからずに苛立たしい思いをしたのは私一人ではないでしょう。
互いの持っている情報の量や質、知識の格差、使用している言語が異なるにもかかわらず、その差異に気がつかないためにディスコミュニケーションが起きてしまう。
あれは、その典型的な事例でした。
現代社会においては職業が細分化され、それぞれが専門的に進化しているために、このような例を挙げれば枚挙にいとまがありません。
文系と理系、研究開発職と営業職、医師と患者、介護者と被介護者の家族‥‥。
国内における同じ日本人同士のコミュニケーションの場においても、グローバルコミュニケーションの能力が必要とされる現場は無数に存在するのです。
このような事例の中でも特に重要でありながら、意外にみんなが気づいていないのが、世代間におけるディスコミュニケーションです。


物心ついた時にはすでにパソコンや携帯電話が存在し、それを自在に操ってきた世代が身につけている文化や教養、生活習慣は、社会に出てから初めてパソコンやe-mail、SNSのスキルを習得した先行世代のそれと同じものではありません。
先行世代と彼ら「ゆとり世代」とのコミュニケーションは、まったくの異文化コミュニケーションであると考えるべきなのです。
にもかかわらず、私たちは彼らに「そんなこと、言わなくてもわかるだろう」「そんなこと、自分で考えろ」というような接し方をしてしまいがちです。
それは、「靴を脱いで家に入る」という大枠の習慣を共有しているためにすべてが同じはずだと思い込んでしまい、その結果引き起こされた韓国人とのディスコミュニケーション同様、極めて危険なコミュニケーションのあり方なのです。


つまり、グローバル人材を育成していくということは、海外に進出する企業にだけ求められていることではありません。
高度経済成長期を終え、すでに成熟期に入ったわが国に求められているものは、多様な価値観や文化を受け入れ、共存していく多文化共生という姿勢なのであり、それを成し得た企業だけが結果的に大きな力を獲得していく。
それだけは間違えようのないことなのです。






















「演劇ワークショップの可能性」2011.09.2   鈴木 あきら

グローバル人材に求められる三つの力

昨日(2011/9/1)の朝日新聞に、「国際化待ったなし/脱ガラパゴスへ/知識よりも弾力性」というタイトルの濱田純一東大総長のインタビューが載っていました。
東大が「秋入学」への移行を検討している背景についてのインタビューです。

その中で濱田総長は大学の国際化と秋入学の関係について、次のように述べています。

「外国から留学生を受け入れたり、日本人学生を海外に送り出したりする上で、入学や学期の始まりの季節のずれが大きな障害になっています。(中略)かつては知識をたくさんもっていることが力になりました。しかし、これからの時代は、人の気持ちをどれだけくみ取れるか、人々の力をどううまくまとめて発揮できるか、といったコミュニケーション力や説得力が必要とされます。その意味で、東大生は知識の量ではタフかもしれませんが、これからレジリエンス(弾力性)、しなやかさのある力も必要です。この力は同質な集団の中ではなかなか育ちません。海外へ行ったり、異文化に触れあったりして、『あれっ、話がうまく伝わらない』と驚く経験をしなければならないのです」。

ここにコミュニケーションの基本があります。コミュニケーションは「伝えたい」という思いがなければ成立しませんが、その「伝えたい」という思いを醸成してくれるのは、「伝わらない」という経験なのです。

「以心伝心」「阿吽の呼吸」という言葉に象徴的に示されているように、これまでの日本社会は、わざわざ説明しなくても思いは伝わる社会でした。
それは日本人のほとんどが、同じ文化、教養、生活習慣を共有していたからです。
しかし、国際化が進んだ社会ではそうはいきません。


たとえば、あなたがニューヨークのマンションに暮らしているとします。
そこに訪ねて来たアメリカ人が、土足のまま部屋に入ってきたとしたらどうでしょう。
あなたは慌てて「靴を脱いで下さい」と注意した上で、なぜ私の部屋に入るときに靴を脱いでほしいのかを理を尽くして説明するはずです。
説明しなければ、相手はなぜあなたが靴を脱げと言っているのかが理解できないからです。


しかし、あなたがいくら理を尽くして説明したとしても、それで相手が納得するかどうかはまた別問題です。
他人の家に入るときに靴を脱ぐという習慣を持たないアメリカ人は、他人の前で靴を脱ぐことを極端に嫌がる人も多いからです。


それでは、相手がかたくなに靴を脱ぐことを拒んだ場合はどうすればいいのでしょうか?
そんな時は、相手と自分が妥協できるポイント、落としどころを探るしかありません。
相手がどうしても靴を脱ぐのが嫌だと主張し続けるのであれば、自室での交流は諦めてどこか外のレストランにでも行くか、あるいは相手に靴を脱いでもらう代わりに、相手が納得する室内履きを用意するというような解決策を探らなければならないのです。


つまり、私たちが「伝わらない」という経験を経て、グローバルコミュニケーションを成立させるために身につけるべき力は、以下の三つだということです。

一つ目は、「自分にとって最も大切な価値は何なのか」ということを論理的にキチンと整理統合する力。
二つ目は、「相手が譲れないと思っている価値は何なのか」ということを理解する力。
そして三つ目は、自分の価値観と相手の価値観を摺り合わせて、対話を成立させる力です。


これこそが、濱田総長が学生たちに「伝わらない経験をさせることによって身につけさせたい」力なのです。


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