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コミュニケーション研究所

2011.07.29
舞台評
鈴木 あきら

(3)文学座アトリエ公演『山羊…それって…もしかして…シルビア?』

鵜山さんの演出に問題があったと思うのはそればかりではありません。

マーティンは大きな社会的成功を手にしている男です。
しかも、それは社会の底辺に生まれた男が苦労の末に成り上がって手に入れたものではありません。物語の冒頭でも示されているように、マーティンは無意識に「高校時代のネクタイをしめたりする」ような男です。つまり、この戯曲(ほん)の中のマーティンは、生まれ育ちも良く、高い教養を身につけた知的エリートとして設定されているのです。
にも関わらず、今回の舞台美術は、そうしたマーティンの家庭環境を観客に示してはくれません。


部屋の中はダウンタウンのアパートメントと見紛うばかりで、家具もインテリアにも、少しばかりの知的な香りさえありません。そのうえ、スティービーが割る陶器の破片が観客席に飛ばないようにするための配慮からでしょうが、舞台にはリングのような柵が巡らされていました。これでは、観客がこの芝居を「獣姦をした男と、嫉妬に怒り狂う女房との異種格闘技戦」だと思い込んでしまっても仕方ありません。

この舞台美術は、ほとんど無意味に変化する照明と相まって、この芝居をことさらに安っぽいものに仕上げてしまっていました。

 

戯曲を読み込むときに最も大切なのは、その戯曲が面白いかどうかではありません。その劇作家が、なぜこの戯曲を書かなければならなかったのか、それを考え抜くことの中にしか、戯曲を読み解く知的スリルはありません。
同様に、私が舞台を観に行くときに向き合いたいと思っているのは、この演出家が、俳優が、スタッフが、劇団が、なぜ今、この戯曲にあえて挑もうとするのかという、その表現の根拠です。


このような見方は一般的なものではないかもしれません。でも、少なくとも私はそのように舞台に向き合いたいと思っているのです。

海外の作家の戯曲に挑むのは、大変な危険を伴う冒険です。なぜなら、一人の作家の表現の根拠となるものに向き合うためには、その作家の社会的、文化的、宗教的背景を理解しなければならず、それは思うほどに簡単なことではないからです。

コミュニケーションというのは、お互いにわかり合えない、思いが伝わらないというところから出発しなければなりません。
お互いの表現フィールドの背景となるものが異なっていることを前提に、そこから何を読み取ろうとするのか。その苦闘の跡だけが、優れた作品を構成していくのです。


鵜山さんという演出家は、優れた才能を持つ演出家だと聞いています。
であればこそ、今一度の挑戦で捲土重来を期したいと思います。



<了>


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