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2011.07.28 舞台評
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鈴木 あきら |
(2)文学座アトリエ公演『山羊…それって…もしかして…シルビア?』
さて、こんな風に『山羊』が書かれた当時の時代背景を押さえておけば、76歳のオールビーがなぜこの芝居を書かなければならなかったかがはっきりしてきます。
オールビーは、「愛にはいろいろな形があるのだ」とか、「なにが正統で何が異端なのか」というようなことを問いかけるためにこの戯曲(ほん)を書いたのではありません。そうではなく、同性愛者である私は神に許される存在なのか。許されないとすれば、私たちは愛をどのように考えるべきなのか、ということを狂おしいほどの苦悩と共に世に問いかけたのです。
台本の中に、夫マーティンの親友であるロスが語る以下のような台詞があります(手元に台本がないので、正確な引用ではないのですが‥‥)。
「マーティン、キミは獣姦を禁じている州法があるのを知らないのか。山羊と交わることで、死刑になることだってあるんだぞ」
それに対してマーティンは乾いた笑いと共に、次のように応えます。
「なんだ、そういうことだったのか。見つからなければ良かったのか。見つからずにやればいいって、そういうことなのか」
ここにはマーティンの抱える苦悩と、友人ロスが受け取っている問題の間の、決定的な位相の違いがあります。
マーティンが抱えている苦悩は、性的モラルの問題や奥さんに対する裏切り、獣姦を禁じる法律を破ったことなどにあるのではなく、人間と神との契約の問題にこそあるのです。
そのように考えると、鵜山仁さんの演出した今回の作品は、全ての点において破綻していたと言わざるを得ません。
第一に、なぜシルビアとの出会いや愛を語るマーティンに、あんな風に台詞を歌い上げさせるのか。あれではマーティンのシルビアに対する愛は、思春期の恋を語る青少年と同じ位相になってしまいます。
マーティンは建築家にとってのノーベル賞とも言える賞を受賞し、数十億ドルの都市開発を手がけている男です。しかし、マーティンはその成功に歓喜しているわけではなく、むしろほとんど無関心と言ってもいい態度を示しています。それは、世俗的な成功を素直に喜べない心の空洞を抱えているからでしょう。そんな時に、終の棲家を探すために出かけた田園の中で、マーティンはシルビアに出会います。自分が手がけている都市開発とは正反対の、何もない、ただ草原が広がっているだけの静謐な風景の中にシルビアはひっそりと佇み、こちらを見返していた。その冷たく、空虚な世界の中にマーティンは吸い込まれ、そこに「神の啓示を見た」と言っているのです。
とすれば、それを語るマーティンの口調は、今回の今村さんの台詞回しとはまったく正反対の、穏やかな心の平穏を語るものでなければなりませんでした。
にも関わらず、鵜山さんが今村さんに台詞を歌い上げさせてしまったばかりに、マーティンの愛の形は世俗的な色恋、肉欲のレベルにまで堕してしまった。
第二に、スティービーの夫に対する拒絶と嫌悪の態度が、ソープオペラ並の世俗的なものになってしまったこと。そのために、ますます二人の演じる夫婦喧嘩が、単なる「浮気物語」にまで墜ちてしまいました。
そのような結果になってしまったのは、スティービーを演じた富沢さん一人の責任ではないと思います。なぜなら、スティービーが家具や陶器を壊すたびに、かつてのアングラ小劇場並の「劇的に」照明を変化させる演出が施されていたからです。
これは鵜山さんの作品解釈が、まったく本質から外れていることを表しています。
マーティンとスティービーがこれまで過ごしてきた、穏やかで平穏な夫婦生活を前提とするならば、スティービーにもマーティンと同じ苦悩があっていい。それはつまり、生理的、感情的怒りに身を任せるのは、正しい行いではないのではないかという葛藤です。ここにも、神との契約の問題があります。神は「怒るな」と教えているからです。
冷静に理解しよう、理解しようと努める。しかし、理解できずに生理的嫌悪感ばかりが募っていく。その葛藤が彼女を苦しめている。だから、スティービーは決して怒りにまかせて家具や陶器を壊していたのではなく、むしろ自分の怒りを抑え、冷静さを取り戻すために家具や陶器を破壊していたのです。
そのことに思いを馳せるならば、陶器を破壊するたびに「劇的に」照明を変化させるという演出が、いかにこの芝居を安っぽい物にしてしまったかがわかります。
※この稿、続く‥‥。

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